絵本・注文の多い料理店



絵本・よだかの星


あとがき


注文の多い料理店・後記

 

注文の多い料理店の絵本を描くにあたってテーマにしていたのは、

物語を自分なりに解釈していくこと、絵本の描き方を学習すること、

パソコンやソフトの使い方に慣れることなどで、出来てみると

子供向けの絵本というより、マニア向けの絵解きのようになりました。

 

絵にしていく過程で、何度も細かい描写を読みかえし、関連することを調べていて気がついた面白いことがたくさんあります。

解釈や考察、図像学や象徴に興味がある方の一助になればと思い、

書き留めておきます。

 

表紙とオマケには山猫の親方を描きましたが、本文中には親方の姿の描写はありません。

扉の向こうの闇の中にいて、ひとことも発することがない。

子分が代わりに喋ります。

存在を示唆されるけれど姿は見えない。本当に恐ろしいものというのを表現しようとすると、どうしてもそういうふうになるのでしょう。

正体がを認識できたなら、対策を考えることができますから。

見たくないもの、抑圧し忌避するもの、知ると不都合なもの。

恐ろしい、ということの本質はそこにあるのでしょう。

山猫の親方とは私達が目を逸らしている何かの化身のようです。

「イギリス兵隊のかたち」というのは調べてみると、

黒い帽子に赤い上着、白いズボンにブーツ、それに長銃というもので、

これは紳士たちが西洋かぶれ、虎の威を借りる狐のように、舶来ものの威光をそっくり真似して得意気にしているということですが、

この配色はイギリスの伝統的な狐狩りの装束ともほぼ一致します。

帽子の形だけ違うけれど、後はよく似ている。

なめとこ山の熊の小十郎のような、山と共に生き獲物を敬う、生業や生き方としての猟師ではなく、獲物をトロフィーにして競う上流階級の趣味の狩り、スポーツハンティングの恰好でもある。

陶磁器社ウェッジウッドのハンティングシーンは図柄としても伝統あるもので、あるいは宮沢賢治がそのティーカップなどを目にしていた可能性もあるかと思います。

少女が描いたイラストがもとになっていて、狐、猟犬、馬に乗った

ハンターが連なって駆けていく、童話的なかわいらしい絵です。

紳士たちは山へ狩りにきているのだから、兵隊よりは狐狩りの恰好をしているほうが絵的には違和感がないと思いそのようにしました。

 

宮沢賢治は、イギリスの狐狩りと兵隊の装束の類似を知っていて、それでもあえて兵隊と書いたのでしょう。文章だけで表現するとき、イギリスの狐狩りの衣装で日本の山に狩りに行ったと書くと、いかにも嫌味っぽい。兵隊の恰好で山へ狩りに行くと書くほうが、ちぐはぐで紳士たちの滑稽さの表現になるようです。

「硝子戸の裏側」山猫軒の一枚目の扉ですが、

山猫軒の扉や文字には、すべてそれぞれの色や質感が描写されていて、描くとなると疎かにできないのですが、

特にこの「ガラス」と「裏」は重要視しました。

「あんまり山が物凄いので」の山というのが、そもそも人間のナワバリの外、人知の及ばない秩序の場、異界という舞台なのですが、

そこから更に山猫の支配する領域、いわば山猫の口の中へと入っていく境界の扉です。

表と裏、外と内、此岸と彼岸、現世と幽世、顕なるものと密なるもの、

隣接する世界と世界の境界というのは、古今東西の物語、神話や童話やアニメなどで視覚的な表現にする時、まず洞穴やトンネル、あるいは水に関わるもので描かれます。

水辺、川、橋、霧、靄、雨、イメージは水鏡へ派生して鏡や氷、

そしてガラス。ひんやりとして透き通って、鏡像を、姿を写すもの。

暗くて狭い筒状の道をくぐり抜けたり、水に満ちた道を歩いたり、

川を渡ったり、霧のなかを進んだり、そういう描写を入れることで

なぜか違う世界へ行っている説得力になる。

鏡写しのようなもうひとつの世界へ渡ったことになる。

 

それは誰しもが、羊水に満ちた胎内世界から、産道を潜って生まれてきた原体験があるために無意識で感じる納得であり、

三途の川とか、根の堅洲国とか、死後や異世界への道が水や地下へのトンネル的なイメージをもつのは普遍的なものです。

水と母性、女性性は象徴的にとても近いところにあります。

 

紳士たちがくぐる内なる世界へのゲート「硝子戸の裏側」という

表現は考えるほどに興味が尽きない一文でした。

扉一枚をくぐる感覚と頁一枚をめくる感覚が同調するよう、右に紳士、

左に山猫軒が常にあるように配置は気をつけました。元々、そういう交互な対比構造の物語でもあります。

 

山猫軒の甘言に騙されながらではありますが、服や銃など身に着けたものを順に取り払って進んでいく紳士たちは、西洋の服に象徴される近代科学的なものの考え方や、銃に象徴される暴力性や征服欲、財布に象徴される経済観念や拝金主義、ネクタイや眼鏡はビジネスだとか知識だとか、生きていく過程で取り込んできた虚飾や思考パターンを取り外して、忘れて、だんだん生まれたままの姿に後退しているとも言えます。くしゃくしゃに泣いて泣いて、ミルクの匂いがして濡れているという紳士たちはまるで赤ん坊にかえったような姿でもある。

それは何も持っていけない死出の旅への備えでもあり、黄泉の女神、山の女神、大地母神の懐への回帰であると解釈もできるわけです。

 

紳士たちが進む廊下は、山猫の食道でもあり、太母の胎内への管でもあるので、廊下の色はレッドカーペットというにはくすんでいて、内臓感のあるピンク色になっています。

装飾のあちこちに猫の意匠があり、また徐々に背景の色が暗く不穏になっていく仕掛けです。

イラストレーターという描画ソフトでやり易い表現として、

真横を向いた紙人形のような紳士たちをデザインしましたが、帽子や服などパーツの取り外しも楽でありつつ、

最後は顔が「紙くずのように」くしゃくしゃになってしまう紳士達にあつらえ向きだったと思います。

また、横顔だけにしたことで紳士達は目がひとつ、二人並んで目がふたつの一組になります。

紳士達は常に同調していて、対立が起きない関係性。二人で一人のような存在なので、そこもうまく符合したと思います。

手下の猫も同様に横顔で一匹に目がひとつ、二人で一揃いです。

山猫の親方だけが正面向きで描かれる存在になっています。

 

「青い瀬戸の塩壺」ここでなぜ紳士たちが騙されていることに気がつくのか、これは描いてみて初めて気がつきましたが、塩というのはお清めや破魔のアイテムでもあります。

盛り塩や、お葬式帰りの人の肩に塩をかけるとか、嫌な客が帰ったら塩を撒いて清めるという風習があります。

塩が登場したことによって、山猫の魔力が削がれ、紳士たちが正気を取り戻したのではないでしょうか。

瀬戸もののすがすがしい白と青を強調し、文様は雪輪に唐獅子と猫を描きました。

白熊のような猟犬が山猫を祓うというオチの伏線になっています。

「ふたりは泣き出しました。」背景が口の中になっているのは渾身のネタ。ちなみに猫にはのどちんこというものはありません。

 

「銀いろのホークとナイフ」銀、というのは色というか、金属の反射の質感を表しています。反射、写りこみ、つまり鏡です。このような心の旅の最終段階は、偽ることのできない自分自身との対峙です。

原体験の開示や、初期衝動への回帰、根本的なトラウマの癒しなどが起こる。

 

しかし、紳士たちは鏡に写った己を見ず、扉を開けることもない。

 

「菜っ葉、塩、真っ白な皿」これが意外な発想の転換があるところで

普通に読むなら、紳士たちは騙されて装備を外し、最後の扉を開ければ山猫に食べられてバッドエンドですが、

裏の意味を読むなら、紳士たちは身に着けてきた虚飾のすべてを取り払い、生まれ変わる寸前まで来ている。

最も恐ろしい試練の先に、闇の先に光明が、死中に活の道がある。

大地母神の支配する黄泉の底。深層心理、集合的無意識、阿頼耶識よりも深く。

すべてを突き抜けると、空(くう)が、0が、無限が、名も無くわざもない、終わりも始まりもない、普く混元の混沌がある。

しんしんと眼が痛むほど深く暗く、だというのに白くぼんやりけむってもいるような、そういう感覚のするところから、また始める。

銀河鉄道の石炭袋、そらの孔へ、暗黒星雲へ飛び込んで、そして草原で目を覚ますような、

エンデの果てしない物語の「何も無い」に飲み込まれてしまった世界で、たった一粒の砂からすべてを再創造するような、

地の深奥が空の天辺に、裏が表に、死が生に、闇が光に反転する、

そういう展開への道筋が、実はあったはずです。

 

真っ白な皿、絵にすると、白くて丸い輪、〇、0、穴、孔、それは次の世界へのトンネルってことだ!という解釈にできたのが、

この物語の絵解きをするなかでのクライマックスでした。

穴を囲む茂み、菜っ葉というのは緑色で、緑は銀河鉄道の切符の色でもある。どこまでも行ける色です。なので、種や若い芽を描いて、よく見るとなんとなく希望がありそうな感じにしておきました。

孔の周りに茂み的なものがあるのもよく描かれる女陰の暗喩です。

参道に木立のトンネルを配置して、そこで心を整えつつ神域に至る、というのも神社仏閣などでよく見られる空間装置で、そういう演出が知らず知らずに参拝者の心理を聖性へ導いていると思います。塩は散らして、道を清めた感じにしました。

紳士たちがもし、勇気をもって自らの意志で鏡の扉を開けたなら、

心の痛み、抑圧されたもの、トラウマ、根源的恐怖、見たくない恐ろしいものを看破し、受け入れることができたなら、そのときこそ宮沢賢治の言うほんとうのさいわいへ至る結末があったように思えます。

 

「白熊のような犬」瀬戸ものの青と、白熊犬の白で最後を決めたかったので、対比で戸の中の猫たちは赤と黒になっています。

赤と青、白と黒、陽と陰、光と闇、犬と猫、男性性と女性性。そういう対比で物語の構造が支えられています。

犬張り子は子供のお守り、シーサーは魔除け、狛犬は神社の神使、そういう神威ある雰囲気を盛り込みつつ描けたらなと思いました。

泡を吐いて死んだかと思われた犬が、復活し、更には山猫を祓うほどの力を持っていたのはなぜか。

山猫が人を騙す悪や魔ならば、白犬は人の心の善や聖の象徴です。

それは心の働きの両極ですが、紳士たちが間違った思い込みを

たくさん抱え込んでいたので、真実を直観する目は曇り力は鈍り、

その意味で白犬は弱って倒れてしまったのかもしれません。

身に着けたものを脱ぐように、思い込みを手放したのなら、直観やインスピレーション、真実を見る力もまた戻ってくる。

 

紳士たちが廊下を進み、虚飾を脱ぎ捨てるにつれて、白犬たちも徐々に目を覚まし力を取り戻していったものと思われます。

また、「風がどうっと室の中へ」など風の描写を捨象してしまっているのですが、

この犬が、物語の冒頭へすべてを押し返す勢いで吠えているような、そういう構図にしたことで、多少フォローできた気もします

 

「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました」

このくだりは物語の最初と最後をつなぐ同じ詩なので、最初の絵と最後の絵も木立のトンネルは同じパーツの並びになっています。

 

オマケの猫達ですが、

猫が好きだから注文の多い料理店という作品をチョイスしたはずが、描けども描けども出てくるのは小太りのおっさんばかりでぜんぜん猫が描けない話であることに気がつき、描き足すことにしました。

このお話を山猫目線で読むと、結局彼らは獲物に逃げられ何も食べられなかったわけですから、気の毒なことです。

紳士たちから、尖って危ない金物の類を取り除いたところまでで、ぱくっといけば良いものを、味付けまで欲張るから元も子もなくなってしまうのは、猫らしい悪い癖とも言えます。うちの猫も捕まえた獲物にトドメをささず弄ろうとして、逃げられてしまうことがあります。

それでクリームと香水のくだりの絵はどちらも猫の目になっています。獲物は手中だと油断して、化けの皮が剥がれてきている。

会話からして子分の猫が二匹いるようだったので、兄貴分と弟分にしました。キャラ付けは、兄貴分が痩せ型でクール、弟分が太めで

のんびり屋、というような昭和的悪役のお約束に則っています。

 

人間の街に出張展開した親方の絵は、釈迦涅槃図のブラックなパロディを意識しました。魅力的なキャッチコピー、流行や教祖のようなカリスマでヒト、モノ、カネを集めているところに、いつでも人喰いの怪物は潜んでいます、

みなさんもフランチャイズ山猫軒に騙されないよう、うまい話にはゆめゆめお気を付けください。

 

この本は、この後オリジナルの絵本を描くために、

色んな事を試してみる意味合いでつくりました。

もし出版関係者のお目に留まりましたら、どうぞお声かけください。

 

 

令和二年四月吉日    矢山昭子

よだかの星・後記

 

何度読んでも涙がこみあげる物語です。

今回あらためて絵におこしながら気がついたことは多くあります。

 

まず物語は前半と後半に、昼と夜、顕と密、表裏や陰陽のように

分けてみることができます。

 

お日さんはよだかに空へ星へ向かうよう教えてくれますが、

その夜明けの、昼と夜の境である日の場面を折り返し地点として、

前半の昼の世界、地上、目に見えるものの世界は、同胞の鳥達の社会。

よだかはその共同体のなかでは居場所をみつけられず、出奔します。

 

後半の夜の世界、天上、目に見えないものの世界にいるのは星座たち。

 

昼間は人と人が関わり賑わう顕在意識のときとすれば、

夜は独りで静かに眠るとき。夜は夢、無意識の意味になるでしょう。

 

星座たちはよだかの精神世界、内面の世界にあるものとすると、

英雄オリオンは男性的な勇猛さや積極性をあらわしているようです。

大犬座は時間を口にします、経験を積むことやそれで生じる貫禄や威厳といったものでしょうか。大犬大熊とくれば子犬子熊の星座もあるので、年長者や家長である姿を連想してもいいかもしれません。

大熊座は理性や知性、科学的な態度。鷲の星はお金、経済力など。

星座たちは、社会が男性に求める価値観の象徴であるようです。

絵にも意味に合わせて毛卍紋、七宝紋、青海波、算盤柄を配しました。

 

困りごとから内省をはじめると、まず「男はこうあるべき」のような、親や社会に刷り込まれた思考パターンを発見するでしょう。

それらを達成することで満足できる段階もあります。

適応し、鷹のように自分が正しさのなかにいると信じていられる。

しかし鋳型のような価値観と、自然にある自分らしさとに齟齬が

おきる時はくるものです。それが葛藤や苦の本質ではないでしょうか。

お日さんは、その時が来たら内面へ向かうようにと教えてくれているのでしょう。象徴でいうと、円は完全性を意味するものですから。

星座たちはよだかを受け入れることはありませんが、

よだかの方こそ、星座が象徴するものはどうしても己をさいわいに しないと気づき、あきらめ、手放していく過程でもあるようです。

昼の鳥達の世界は赤、夜の星々の世界は青を基調に色を選びました。

そして中間色の緑。宮沢賢治の物語では、緑は特に重要だといいます。

銀河鉄道で、「どこまででもいける」切符の色は緑です。救済の色。

そう心得てからよく読むと、かえる、蜂雀、めじろ、などのいきもので緑色を想起させていたことがにわかに重要に感じられてきます。

 

赤と青の均衡、昼と夜の拮抗、相反し対立するものが混ざりあい止揚、調和すること。それが緑に託された意味ではないでしょうか。

 

地の底より深く落ちて、空の果てより高く昇って、生と死を越え、

体からも心からも離れられたときの、境地へ至る色。

 

銀河鉄道の夜で、さそりも井戸の底に落ち、空で星になりますが、

どこまでも深く下へ落ちると、天上に生まれ変わっているという同じモチーフがあります。

下でも上でも、果ての果てまで突き進み、有限の世界の殻を突破して、

観測できる世界すべてを包みこんでいる、無限からの視座にたつ。

ほんとうのさいわいは、そういう心持ちにこそあるように思います。

 

さそりとよだかは、虫を食べることに苦しむこともよく似ていますが、

よだかの星では、鷹とよだか、よだかと甲虫は、弱肉強食の相似関係にあるので、赤が青を呑むような似た構図にしました。

生きるために他者を食う、食物連鎖というのは如何ともしがたい肉体の世界の摂理であり、

それを苦とすると、どう足掻こうと決して逃れられない恐ろしい苦となります。肉体に付随する苦を捨てるため、肉体ごと捨てるしかなくなってしまう。

 

そうしてついに星になるよだかに寄り添うのはカシオピアですが、

ギリシャ神話では人間の女性の星座です。

めじろも母ですし、では蜂雀も姉ないし妹かもしれません。

宮沢賢治と妹、というとそれもずいぶん重要です。

作者の投影でもあるよだかは、弟である川蝉は言いくるめられても、妹が引き留めれば無下にできなかったはずです。

だからあえて蜂雀には会わずに去ったのではないでしょうか。

 

さて、かえるの緑はよだかが辿る運命の暗喩、蜂すずめの緑は妹、

昼の世界にもあった安らぎの意味のように思えますが、

では、めじろはどんな意味での緑なのでしょうか。

 

よだかが目を瞑りひとりで考えるのは、後半の展開への伏線ですが、

そこにあらわれる緑のものが、ただの意地悪な他者とは考えにくい。

めじろは赤ちゃんの母、母親というイメージを担っているのが気になりました。

母、母胎を通って生命は生まれてくる。

 

カシオピアと供に天の川の描写がありますが、天の川は英語でミルキーウェイといい、神話では女神の乳のあふれた川、銀河鉄道でも冒頭でそのように紹介されます。

 

よだかの物語は一読してひどく孤独ですが、

蜂雀、めじろ、カシオペアと天の川と、要所に女性性や母性の伏線が織り込まれている。

それは、夜空でいつまでも燃え続けるよだかを、

いつか次の世界へ送り出すための備えのようにも思われるのです。

よだかは、それに気がつきさえすれば、いつでも帰れるし、新しく

生まれることもできる。

そういう輪廻の構造を絵本に仕込むのも面白いかと、

表紙のよだかは、鳥の雛のようにも見えるように描こうと思いました。

考えてみれば、くちばしや目が大きくよちよち歩くというのは雛や

幼いものを想起させる特徴かもしれません。

 

他者を食らい、他者と関わる世界、目に見えるものの昼の世界に生まれることが、また苦しみとなるのか。

異なるものを見いだせる新しい循環になるのか。

それは、夜の闇のなか、ひとり還る世界にどれだけの確かさと豊かさをもっているかで決まることでしょう。

 

2022年7月吉日 矢山昭子